イグアス移住地の歴史
イグアス移住地は、戦後のパラグアイの移住地としてはピラポ移住地に続いて4番目、戦前からあわせると5番目の移住地として、日本海外移住振興株式会社の直轄移住地として設立された移住地です。
1959年に日本とパラグアイ両政府の間に移住協定が結ばれ、30年間にわたり総計85,000人の移住者受入れが合意されたことを受けて、1960年1月より調査が開始されました。
移住地予定地は、当時パラグアイ政府により農牧業の開発が進められていた、アスンシオン、エンカルナシオン、プレジデンテ・フランコの3都市をむすぶ三角地帯にあり、前年59年にはアスンシオンからブラジルへ通じる国道7号線(通称:国際道路)が開通し、発展が期待されていた地域でした。このような背景のもと、日本海外移住振興株式会社は、1960年10月までにマルチン商会の所有地約87,763haを購入価格1億9731万円で購入し、当時の地区名ブリオネスクをイグアスと改称し造成を開始しました。
そして1961年8月22日、フラム移住地(現在のラ・パス移住地)およびチャベス移住地からの分家移住希望者14家族が、第1次団として入植しました。当時のフラム移住地およびチャベス移住地は、既に満植状態となり、次男や三男を中心に新たな土地が求められていたことと、彼らにイグアス移住地での指導的役割を期待されていたものです。
イグアスに入った移住者は、移住収容所に仮住まいをしながら、国道7号線から南に約4キロ入ったピクポ川ぞいの原生林を切り開き、山焼きして耕地を開拓していきました。
第1次移住者の入植と並行し、日本では日本海外協会連合会(略称:海協連。1954年に各地の移住促進団体の統合により設立。)によるイグアス移住地への移住者募集が進められ、1963年7月2日には日本からの直接移住者7家族がさんとす丸にて横浜を出航し、8月25日にイグアス移住地に入植しました。
1964年から65年にかけては、移住者達は自治組織を設立し、道路整備、教育向上、治安維持などに努めました。1970年代に入ってからは、1970年にの電話開通、1974年の電化実現を迎えてインフラ整備が進められたほか、1972年には事業団のイグアス試験農場が、ピラポ移住地のアルトパラナ試験農場と共にパラグアイ農業総合試験場と改組されてパラグアイ全体の農業の研究機関となり、1978年には日本語学校校舎落成、1976年には聖霊幼稚園の開園など、各種教育機関の整備もすすみました。1980年には3等市に昇格し、初代市長には日系人である石橋学氏が就任しています。その後1990年には上下水道の整備されました。
当初、事業団ではイグアス移住地への入植予定数を2000家族と考えていましたが、60年代、日本は高度成長時代に入り、経済的理由による移住者が激減し、1972年までの入植者は238家族(うち、日本からの直接移住者は81家族、約34%)に留まり、現在の日系移住者(イグアス日本人会会員)世帯数は、173世帯(2002年3月現在)となっています。
またイグアス移住地は、国際協力事業団直轄の移住地ではあるものの、開設当初から植民地法に基づき、パラグアイ人入植者も受入れ、現在ではブラジル人やスイス人、ドイツ人などの入植で多国籍な移住地となっています。なお、日系人(イグアス日本人会会員)による土地所有の面積は、24,227ha(移住地全体の約28%)となっています。(2001年1月現在)
1989年のクーデターによりストロエスネル大統領の独裁政権が崩壊すると、クーデターの指導者であったロドリゲス大統領による農地改革を期待した土地なし農民達によるデモ活動がさかんになり、イグアス移住地においても各地区を合計して665人の不法占拠者が侵入するに至りました。この問題の処理のため、日本人会では不法占拠処理泰作委員会を設置し、各方面に働きかけた結果、11ヵ月を経てようやく裁判所の立ち退き命令に基づき、軍と警察の混成部隊により不法占拠者の排除が行われました。
日本からの直接移住者数は伸び悩んだイグアス移住地ではありますが、1970年には東京農業大学拓殖学科の海外移住研究部OBを中心とした杉野牧場が開設され、杉野理論と言われる拓殖原論の実現のための農場が設立されるなど、従来のような経済的理由だけでなく、様々な価値観による移住者が多く入植したことにより、多様性をもつ移住地であるとも言えます。現在は1世から2世、3世へと世代が進み、価値観や生活言語などの変革と共に、若者の移住地離れが進んでいることが懸念されています。
なお、2001年にはイグアス移住地は開設40周年を迎えました。
イグアス移住地における営農の推移
イグアス移住地も、入植当初は他の移住地同様、うっそうとした原生林の開拓から始まりました。自営開拓農業の入植地として始まったイグアス移住地ではありますが、入植がはじまった当初のイグアス移住地は交通の便も悪く、作物の販売が難しかったため、マイス(とうもろこし)、マンディオカ、陸稲など自給自足的農業から始まりました。
その後、移住者たちの携行資金が減少していく中で、資金回転の早い換金作物として注目されたのが蔬菜です。中でも、60年代から70年代にかけての移住地の収入は、トマトの栽培は支えていたといって過言ではありません。1969年の海外移住事業団による調査では、イグアス農家の70%が蔬菜を主体とした営農形態をとり、それら蔬菜農家の95%がトマト栽培を軸にしていました。また、移住地全体の売上農産物高のうち、トマトが占める割合は65%でした。その後、メロンの栽培もさかんになり、1970年代のイグアス移住地は、トマトとメロンの生産地としてパラグアイ全国に知られることとなりました。
また、当初イグアス移住地は肉牛の産地形成を期待して開設された移住地でした。事業団の勧めもあり、70年代には移住者や進出企業が本格的な牧畜に取り組むなど、牧畜に取り組んだ移住者は他の地域より多数となりました。しかし、マーケット不足や冬季の凍霜害などで伸び悩みました。
畑作は1968年ごろから大規模な大豆栽培に取り組む農家もありましたが、1972年に事業団イグアス事務所にブルドーザー等が導入されたことを受けて、開墾が進み、78年にはトマトに並ぶ柱となりました。
その他に、70年代中期には、ピラポなど南部移住地で行われていた養蚕が導入されイグアスの基幹産業となりましたが、1983年にはピラポにあった日系進出企業パラグアイ絹糸工場ISEPSA(イセプサ)が撤退したことで急激に減少しました。
その後1980年代には、養蚕業の撤退、蔬菜の市場競争の激化、大豆市場価格の低迷と低収量など不振が続いた上に、大規模機械農業への資金投入が、ドルの高騰を受けて農家の負債を膨大させるなど、逆境続きとなったため、移住者の中では経営規模の縮小や日本へ帰国する移住者も相次ぎました。しかし、1983年に不耕起栽培の導入が成功したことにより、大豆栽培は80年代中期からは高収量を記録すると共に、不耕起栽培先進地として、パラグアイ全国にその名を馳せるようになりました。
現在のイグアス移住地の基幹作物は大豆で、実に大豆畑が移住地面積の約3割(約25,000ha)を占めるに至っています。なお、この大豆収穫後の冬作には小麦が栽培され、イグアス農協では自前の製粉工場でHarinaNikkeiが生産、販売されています。 また、近年は裏作に緑肥食物としてトウモロコシやえん麦なども導入されたり、牧畜との複合体系の導入が図られたりと、地力を保ち、より環境保全を考えた持続的農業への取り組みがすすめられています。他にも、畑作だけに頼った営農形態からより多様で安定した形態の確立のため、1991年に発足した日系全パマカダミアナッツ研究協議会を中心に、永年作物としてマカデミアナッツの導入も進められています。
※ここまでの歴史写真は、イグアス農協より提供されました。
イグアス移住地の関連施設等
CETAPAR(JICAパラグアイ農業総合試験場)
セタパル(CETAPAR(JICAパラグアイ農業総合試験場))はパラグアイにおける移住事業の重要な柱として移住者の営農の安定と振興を図る為に1962年に設立され、1994年に移住事業の再編が行われた後は、国際協力としての農業技術支援が行われ、各種機関と連携したプロジェクトを実施した技術協力事業が展開されるようになり、2000年からは、日系移住者に限らずパラグアイ国の農業技術者・農業従事者を対象としてプロジェクトとして技術協力事業が行われています。
活動としては、大豆、小麦、トマト、メロン、肉牛、牧草に関する調査研修、土壌の分析や定点調査、ならびに普及活動などを実施しています。新品種トマト「Super CETAPAR」やメロン「Luna Yguazu」はセタパルによる新品種です。
CADEP(東パラグアイ三育学院)
カデップ(CADEP(東パラグアイ三育学院))は、1992年にセブンスディ・アドベンティスタ教団によって設立されたパラグアイ国の文部省公認の私立ミッション校です。
同じくアドベンティスタの学校としてアスンシオン三育学院が1975年に設立されていますが、それ以上の敷地拡大が困難であったため、緑豊かなイグアスにおいて120haもの敷地を利用し新設校としてCADEPが作られ、同校の創立理念である知育、徳育、体育の総合的発達を通した円満な人格形成を目指しています。
三育学院の特色としては聖書の学習のほか、寄宿制度があり、労働作業学習が設けられているため、生徒たちによって清掃などがされています。また、働きながら学習する生徒のための労働学生制度も設けられています。
イグアス移住地(全体)概略地図
イグアス移住地(セントロ)概略地図
「農業の生産性は地力から」
~イグアス移住地と不耕起栽培~
パラグアイ南部地域には、ティエラ・ロシアと呼ばれる世界でも有数の肥沃な赤土が広がっています。この赤土地帯を豊かな穀倉地帯に変えた農業技術が、不耕起栽培です。
不耕起栽培(英語ではno-tillage farming、パラグアイ(スペイン語)では、Siembra directa)とは、前作収穫後は耕耘・整地せず、直接次の作物を圃場に播種する栽培方法で、1983年にイグアス移住地の窪前勇氏と深見明伸氏により実践されてから、現在は大豆・小麦を手がける日系畑作農家にとして欠かせない農業技術となっています。
1960年代から日系移住者の勤勉な努力により開拓されたパラグアイ南部の農地も、大豆・小麦の大規模機械化農業が進むにつれ、集中降雨による土壌流出とそれに伴う地力の減退が問題となり始めていました。特に、大豆の播種時期に多い集中豪雨による表土の大量流亡は、深刻なものとなっていました。
農家の大切な財産ともいえる肥沃な土壌を守る為、CETAPAR-JICAアルトパラナ(ピラポ)分場(1985年に閉鎖。イグアスに統合)では、1982年から各移住地の日系農家を対象として、先進地ブラジルから技術者を招聘し、不耕起栽培についてのセミナー等を開催しました。このセミナーの参加者から、ここイグアス移住地の窪前勇氏と深見明伸氏が先陣を切って不耕起栽培に取り組んだのが、パラグアイにおける本格的不耕起栽培の始まりです。
それまでも断続的に不耕起栽培を試みた農家はあったものの、「耕地が固くなり、生産性が年々減少する」「前作の残渣が邪魔になり播種が困難である」「雑草の繁茂を許し、病害虫が拡大する」というような否定的な意見が多く見られたのが現状でした。しかし、窪前・深見両氏の不耕起栽培の成功は、後続の農家を続々と生み出すこととなります。1986年から1989年の間、CETAPAR-JICAがイグアス移住地を中心に毎年一回開催した「全パ日系不耕起栽培パイロットリーダー育成研修会」を開催すると、そのパイロットリーダーを中心として、各地で不耕起栽培にとりくむ農家が激増しました。そして、その後の研究と情報交換のために、1987年にはCETAPARにおいて全パ日系不耕起栽培研究組織協議会が設立されました。
写真:全パ日系不耕起栽培研究組織協議会「パラグアイにおける不耕起栽培」より
不耕起栽培には、そもそもの目的であった土壌の保全のほかに、以下のような利点があります。
- 耕耘・整地作業を行わない為、適期に播種が可能。
- 農機具(トラクターなど)等への設備投資が少なくなる。
- 機械の稼動時間が減り、経費と労力の節減が出来る。
- 雑草の抑制が可能。
- 土壌水分や養分の保持がなされるため、慣行栽培と比較しても、収量は変化がない。
一方、問題点としては①専用播種機が必要であること、②除草剤による雑草防御が困難であること、③病害虫の多発傾向があること、④除草剤などの直接経費が比較的高価になること、⑤表層部の土壌の硬化などがあげられていますが、各種技術の改良が進むにつれ、改善される方向にあります。
1993年にはイタプア、アルトパラナ両県の日系を含む農家が中心となり、不耕起栽培を主目的とした持続的農業の全国研究組織FEPASIDIAS(FEDERACION PARAGUAYA DE SIEMBRA DIRECTA PARA UNA AGRICULTURA SUSTENTABLE)がアルトパラナ県サンタ・リタ市で結成されました。
イグアス移住地から始まった不耕起栽培は、現在に至るまで、「地球環境にやさしい永続的な農業技術」として、日系社会に留まらず、全パラグアイの畑作農家にとって大きな福音となり、パラグアイにおける大豆生産面積の約40%まで普及し、パラグアイにおける慣行技術として定着しました。
なお、それまでのイグアス移住地は元来、畜産とトマト等の蔬菜栽培が主体の移住地でしたが、野菜の市場価格の低迷などにより伸び悩み、1980年代に入ってからイグアス農業は畑作への転換を模索したもののかえって経営を圧迫し、危機的状況に陥っていました。しかし、1986年、JICAの支援と指導を受け、不耕起栽培の導入を前提とした畑作への経営転換を図ったところ、天候と大豆の国際価格の高騰に助けられ、わずか3年で経営をもちなおすことができたという経緯があり、イグアス移住地の畑作生産者とイグアス農協にとっては、この不耕起栽培は農業技術革命をもたらした「救世主」ともいえるものとなっています。
参考文献
- 全パ日系不耕起栽培研究組織協議会(1993年):「パラグアイにおける不耕起栽培」
- 青山千秋(1991年):「パラグアイにおける大豆・小麦の不耕起栽培」農林業協力専門家通信Vol. 12 No.4
- イグアス農業協同組合:「不耕起栽培記念碑建立にあたって」
イグアス賛歌
作 詞 宇都 徳顕 補 曲 長内 リサ
(入植15周年記念入選作品)
一、 大いなる 希望に燃えて
我等きたれり 南米パラグアイ
共に築かん ふるさとイグアスを
今ぞ ためさん我等が力
おゝフロンティア
おゝ おゝ フロンティア
二、 みどりなる 沃野きり拓き
我等住みし 南十字星の下
共に開かん ふるさとイグアスを
今ぞ かかげん文化の光り
おゝフロンティア
おゝ おゝ フロンティア
参考文献
- イグアス移住地入植30周年記念誌「大地に刻む」(イグアス日本人会)
- イグアス移住地入植40周年記念誌「大地に刻む」(イグアス日本人会)
- パラグアイにおける不耕起栽培(全パ日系不耕起栽培研究組織協議会)
- 「パラグアイにおける大豆・小麦の不耕起栽培」農林業協力専門家通信Vol. 12 No.4(青山千秋)
- 「不耕起栽培記念碑建立にあたって」(イグアス農業協同組合 組合長理事 久保田洋史)
- パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」(パラグアイ日本人会連合会)
取材および撮影等協力
- イグアス日本人会
- イグアス農業協同組合
- CADEP東パラグアイ三育学院
- 松本匡代さん(日系社会青年ボランティア17回生、イグアス農業協同組合)