エンカルナシオン市について
エンカルナシオンは、パラグアイの南部イタプア県に位置し、人口約6万人を擁するパラグアイ第3の都市です。パラナ河をはさんで向岸にはアルゼンチン(ミシオネス州)ポサーダス市に面しており、1959年6月1日に貿易港として開港してからは、アルゼンチンとの交通の要となっており、現在は国際橋で結ばれています。
イタプア県には戦前よりドイツ、イタリア、ロシア、ポーランド等による移住地が開設されており、戦後はチャベス、ラ・パス、ピラポという3つの日系移住地も加わって農業開発が盛んに行われています。エンカルナシオン市はその中心として、各種農作物の集積地としての役割も果たしています。
また、エンカルナシオン郊外のトリニダーおよびヘススには、1607年~1767年に栄えたイエズス会の宣教師達による先住民族の教化村跡が残されており、UNESCOの世界遺産に登録されています。
エンカルナシオン日系社会の歴史と概況
戦後、パラグアイへの日本人移住が再開されてから、1953年にチャベス移住地、1955年にフラム(現在のラ・パス移住地)、1960年にピラポ移住地と、イタプア県内に相次いで日本人移住地が開設されました。これらの移住地へ入植する移住者達の入国窓口となったのが、ここエンカルナシオンです。そのため、ブラジル移住におけるサントス港のような位置付けにあるとも言われています。
戦後、アルゼンチン(ブエノス・アイレス)で下船した移住者達は、薪を焚いて走る国際列車に乗り、約2,000キロメートル、2泊3日の旅路を経て、ポサーダスへと向かいました。ポサーダスからは貨車ごと筏に乗せられてパラナ河を渡り、パラグアイ側のエンカルナシオンへ入国しました。
エンカルナシオンにはこれらの移住者の為に、日本海外移住振興株式会社(移住地購入・造成に当たった国策会社。その後、海外移住事業団へ)の敷地に日本海外協会連合会(移住者募集選考、送出などをおこなった日本政府による財団法人)によって木造の宿泊所が建設されており、到着した移住者達は、移住地へ向かうまでの準備期間をそこで過ごすようになっていました。この宿泊施設は、その後の移住者の増加に伴い、1963年にはパククア地区にコンクリート建築の新たな収容所が設けられるに至りました。
開設初期、これらの移住地における営農形態は、油桐、ポメロ(グレープフルーツ)、ジェルバ(マテ茶)などの永年作を中心としたものが目指されていました。しかし、それらの市場価格が低迷したことなどを受けて、移住地における営農に限界を感じた移住者の中から、次第にエンカルナシオン市内に移り住んで、商業などを営む移住者が出てくるようになりました。1957年には既にBAR TOKIOという日本人による飲食店が開かれており、1962年頃には、パラグアイ発の邦字新聞も発刊されるなど、当時から南部日系社会の情報および交流の中心としての役割を負うようになっていきました。また、イタプア農業共同組合連合会(現在の日系農業共同組合中央会)では、これらの移住地の産物をエンカルナシオンに集め、大型トラックでアスンシオンへの運送業務も行っていました。
このようにエンカルナシオン市内に開業した日本人達は、その勤勉で正直な仕事により、地域の人々から高い信頼を得るようになっていきます。しかしながら、当初その風当たりは厳しいものでした。特に1962年には、勤勉で正直な仕事振り日本人による商売が既存の商業などを圧迫することを恐れた当時のロブレード市長を中心に、日本人移住者は農業移民として入国していることを盾に、「日本人は山(※移住地)へ帰れ」という世論が沸き起こり、排日的なトラブルが起きることもありました。日本側から見ても、そもそもパラグアイにおける日本人移住協定は農業移住を前提としていたことから、都市部に転住する移住者は「脱耕者」と呼ばれて歓迎されない空気があったこと、また、移住者の支援にあたっていた海外移住事業団でも、商業・工業を営む移住者に対する融資が立ち遅れたこともあり、都市部における移住者の生活もまた厳しいものでした。そしてその後1963年には、エンカルナシオン日本人会商工組合が組織され、日系商工業者の連携と安定が図られるようになっていきました。
日本人による商工業が発展していくのと同時に、日本からの投資も行われるようになりました。1965年頃には東洋綿花によるエンカルナシオン初のディーゼル発電(発電機:明電舎、ディーゼル:新潟鉄工)が導入されました。それまでのエンカルナシオンにはボイラーによる発電設備しかなく、電圧が不安定で、かつその需要を満たせない状態だったのですが、この導入によってより安定した電化が図られました。なお、同社からは、日系移住地で生産された大豆約350トンが日本へ初めて輸出されていますが、乾燥技術の問題などもあって一回限りとなっています。
また当時の日系移住地で生産されていた油桐(※実から取った油が、パラシュートの皮膜、各種塗料などに使われた)の搾油工場として、1969年には、官民合同出資(海外移住事業団、三井、大阪商船、伊藤忠)によるイタプア製油商工株式会社(CAICISAカイシサ)がパククア地区に設立されました。同社の工場設備ではパラグアイ初の抽出設備を備え、周辺のパラグアイ住民の雇用促進にも寄与しました。しかし1972年に始まった大豆ブームにより、日系移住者が市場価格の安い油桐から大豆へと転換していくようになったこと、またパラグアイの輸出制限や為替差損によって経営が安定しなかったことなどを背景に、1988年には民間会社に払い下げられ、終息していきました。
日系移住者を迎えるまでのエンカルナシオンには、金融・消費生活・流通などの面ではまだ充分な発展がみられず、特に戦前から開設されていた各国の移住地は、その移住地内だけで閉ざされた経済ブロックを形成していました。しかし、既に高度成長期を迎えて近代化を果たしつつあった日本からやって来た日本人移住者達が、その金融や流通を整備・利用することで、エンカルナシオン市を中心に近代的な消費生活形態を導入して言ったとも言われています。その他、移住地で生産された蔬菜などによって、季節を問わずに野菜を供給する体制を作り上げるなど、南部パラグアイの食生活の改善に寄与しています。
現在のエンカルナシオン市内及び近郊には、食料品店、レストラン、美容院、時計屋、日本食材店などの商業を営む他に、各種企業のサラリーマンとしても働いており、エンカルナシオン日本人会における会員数は74家族(2003年度)です。この他、居住家族のほか、学習環境が限定される近隣の日系移住地から、多くの日系子弟が高度な教育を求めて市内で寄宿生活を送っています。
また、医師、弁護士など多分野にわたって高学歴の人材が多く居住しているのがエンカルナシオンの特徴でもあり、将来の日系社会における指導者となる人材が期待されています。
なお、日本からの移住者の送出が終息したあと、移住収容所は国際協力事業団(現在の国際協力機構、JICA)のエンカルナシオン支所となり、南部パラグアイに対する国際協力、そして日系社会支援の要となりました。イタプア全域における日本政府のODAは、農業支援、道路整備、農村電化などパラグアイの社会開発に大きく寄与しています。ちなみに、このJICA事務所は2003年7月に閉鎖され、その建物は現在のエンカルナシオン日本人会事務所として使われています。
エンカルナシオン市の様子
参考文献
- パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」(パラグアイ日本人会連合会)
- のオアシス パラグアイ(財団法人海外移住助成会)
取材および撮影等協力
- エンカルナシオン日本人会
- エンカルナシオン日本人会青年部
- 三浦由紀子さん(JICA日系社会青年ボランティア16回生・エンカルナシオン日本語学校)