ラ・コルメナ移住地

ラ・コルメナ移住地の歴史

ラ・コルメナ移住地(ラ・コルメナ市)はパラグアリ県に属し、アスンシオンから東南約130㎞、国道1号線カラペグア市の東、約50kmに位置する、パラグアイで最初の日系移住地です。パラグアイにある日系移住地のほとんどが戦後の移住によるものであるのに対して、ラ・コルメナ移住地は戦前1936年4月30日に定められた大統領令第1026号に基づいて日本人の移住が始まりました。

1934年、ブラジルで定められた「移民二分制限法」により日本からブラジルへの移住が大幅に制限されたことを背景に、当時のブラジル拓殖組合(通称ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人氏の調査をもとに、1936年、パラグアイ政府から日本人移民100家族を試験的に受け入れる許可を取得し11,000haの土地を購入しました。

ラ・コルメナ入植とコルメナ富士

ラ・コルメナ移住地は東(ビジャリカ方面)や北(イビチミ方面)に山景が見え、広大な南米大陸においても祖国日本の面影を感じさせるたたずまいで、1936年の入植候補地の最終調査および選定にあたっては、その様相が最終決定の一つの要素となったといわれています。中でも移住地の西南にあるセロ・アプラグアという標高300メートル程度の小高い山は、その姿がどことなく富士山を感じさせ、その後も「コルメナ富士」として日本人移住者達の望郷のよすがとなりました。

なお、1936年6月にはブラジルからの指導移民、8月には日本から最初のパラグアイ移民を迎えて開拓が始まりますが、それまでの準備期間が短かったこともあり、移住当初の移住者達は食べる野菜もない中、家作りや山焼き、井戸掘りなどの重労働を強いられ、作物の収穫は伸びず、苦難の連続となりました。そんな状況の中、1938年にはブラジルからの指導移民を中心に退耕者が出たのをきっかけに、その後も1941年の第二次世界大戦までに相次いで24家族と3独身者が退耕するに至りました。

第二次世界大戦と戦後のラ・コルメナ

1941年に第二次世界大戦が始まると、パラグアイは日独伊枢軸国に対して国交断絶を宣言し、ラ・コルメナへの入植者も途絶え、1942年には日本語学校も閉鎖、1945年には日本語学校の土地建物等を没収されることになってしまいました。そして同じく1945年にパラグアイが日独伊に宣戦布告をすると、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となり、移住地以外への外出が制限されました。

敗戦の後は政府による干渉の下でありながらも、1946年には体育協会を設立し、日本人同士がスポーツを通して親睦を深めていくようになり、1954年には若者を中心とした青年団が再結成されました。これが1956年にはラ・コルメナ日本人文化協会(現在のラ・コルメナパラグアイ日本文化協会)となりました。  戦争が終わった後も、ラ・コルメナ移住地の苦難は続き、1946年および1947年には空が暗くなるほどの大飛蝗群の襲撃により、作物はおろか立ち木も食べつくされ、その後も地中に産卵された幼虫を火炎放射器で焼き殺す騒ぎとなり、この打撃をうけて、アルゼンチン、ブラジルへの退耕者が急増しました。

その後、1965年にはアスンシオン市場に通じる道路(ラ・コルメナ、アカアイ間)の整備により、消費地首都アスンシオンまで130キロという地の利を生かしての蔬菜栽培や果樹栽培が盛んになり、1951年からはラ・コルメナ農協によりワイン製造も行われました。現在も盛んに行われている果樹栽培により、ラ・コルメナ移住地は「Capital de las Frutas(果物の都)」とも言われています。

なお、「ラ・コルメナ」という移住地の名称は、勤勉な日本人にふさわしく、「ミツバチの巣箱」という意味で名づけられた名称です。1978年には自治区から市に昇格し、全人口は約5,000のうち、日系人の人口は94戸403人となっています。(1999年10月現在)

ラ・コルメナ移住地における営農の推移

ラ・コルメナへの移住入国許可において、移住者は輸出作物を生産することが定められていたため、移住当初はパラ拓の指導のもと、棉作が取り入れられました。その他には水田を利用した自家用米、タバコ、マイス、マンディオカなどと作りながら開拓に努めました。

入植当初は、ブラジルより指導移民としての移住者が入っていましたが、ブラジルとの環境の違いにより、予定していた農法では収穫をあげることが出来ない上に、入植初年度(1936年)には旱魃、翌年には収穫時の大降雹、入植2年後には洪水などの天災に見舞われ、移住者の経済は低迷します。棉作主体の経営形態は棉の出来不出来に1年の経済が左右されてしまう為、裏作として小麦、タマネギ、エンドウなどが取り入れられましたが、その収入も不安定で市価もふるわず、たいていの農家は赤字を抱える状態でした。入植してから第二次世界大戦までに大量の退耕者を出すに至ったのも、このような背景があったためです。

しかし、戦後には世界的な棉景気が訪れ、ラ・コルメナ移住地においても豊作に恵まれたこともあり、移住者が滞納していた土地の代金や借用していた生産・生活資金の返済がされるようになり、ラ・コルメナの経済はやっと一息つくこととなりました。

しかしながら、その後は棉作も無肥料や連作によって年々減収していく状態となったため、棉作一本の不安定な営農形態からの脱却を図るため、裏作としてアルゼンチンやブラジルから取り寄せた適品種によるたまねぎ、馬鈴薯の栽培が普及し始めました。

これにブドウ、ツング(油桐)、ジェルバマテなどの永年作物を組み合わせた多角複合営農形態が進められましたが、その中でもブドウは栽培の適地であることが判明し、すもも、みかんなどの他の果樹栽培にも先立ってブドウの作付面積が増大し、1951年からは、農協によってLa Colmenita(ラ・コルメニータ)、La Japonesita(ラ・ハポネシータ)という名のワインの醸造事業が始まりました。1960年ごろからは地力維持のために豆科作物の栽培が取り入れられ、ポロット(豆類)や落花生などの栽培も増加しました。

その後1965年には道路の開通により、アスンシオン出荷に向けたトマト、ピーマン、キャベツ、すいか、メロンなどの蔬菜栽培がさかんになり、多角複合的な営農形態に移行しました。

それまでの牛馬耕が機械化され、集約的な多角農業が始まると、農協を中心として、今までのいわゆる略奪農業から、地力の維持や表土の流出防止などを考えた蔬菜、果樹栽培の園芸研究が盛んに行われ、現在ではアスンシオンという一大消費地の近郊蔬菜産地としての地位を確立するに至り、ワインの製造は1995年に廃止されたものの、盛んな果樹栽培を主体とする蔬菜複合経営形態が定着する方向にあります。

※ここまでの歴史写真はラ・コルメナパラグアイ日本文化協会より提供されました。

ラ・コルメナ移住地の関連地図

ラ・コルメナ移住地地図

ラ・コルメナ移住地周辺関係地図

ラ・コルメナ移住地の関連施設等

愛村行進曲

作  曲              宮脇 春夫

作  詞              殿岡 清方

1949年6月に実施された愛村行進曲の歌詞募集に投稿された24編の歌詞から選ばれた1位、2位、佳作の計3作を日本の日本海外移住組合連合会へ送り、若干の修正を受けて完成したものです。

一、       希望に燃えて大陸に

ラ・コルメナの新天地

愛土(ガット)精神受けついで

育くみ育てし大和村

二、       開拓ここに十余年(よとせ)

苦闘の跡や滋くとも

たじろぐことのあらばこそ

弥(いや)ます力ためしみむ

三、       大地に生きる郡人(むらびと)は

高き理想の星の下

文化の華をつちかいて

愛土平和の村建てん

四、       共存共栄相互扶助

産組の精神身にもちて

つどうや自由の旗の下

ここぞ吾等の平和郷

五、       愛土安住の朝ぼらけ

あれあのマーチが聞ゆるぞ

歓喜にみちたあの声を

ともに歌はん高らかに

参考文献等

  • パラグアイ国最初の日本人移住地ラ・コルメナ移住地20周年誌(20周年史刊行会)
  • パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」(パラグアイ日本人会連合会)

取材および撮影等協力

  • ラ・コルメナパラグアイ日本文化協会
  • 野本正美さん(日系社会青年ボランティア17回生・ラ・コルメナパラグアイ日本文化協会)
  • 城朋子さん(日系社会青年ボランティア16回生・ラ・コルメナ日本語学校)