ピラポ移住地

ピラポ移住地の歴史

戦後のパラグアイの移住地としてはチャべス、フラムに引き続いて3番目、戦前からあわせると4番目の移住地として設立されました。

現在の国際協力事業団(JICA)の前身である日本海外移住振興株式会社は、ラ・パス移住地の満植にともない、1957年1月より調査を開始し、1958年3月アルカスツル殖民会社より約23,095haを購入し、これに加えて翌年6月その北部に隣接するカレンズ地区さらに10月ピラポ地区の南部に接するアカカラジャ地区の私有地を購入し、移住地全域の購入を完了しました。1959年8月より道路造成および区画割り測量に着手し、1960年7月の移住地開設披露の後、8月2日に、日本からの第一陣移住者として26家族が入植しました。

日本人の移住の始まる前は、わずかなインディオたちが2~3の部落を形成し、焼畑や狩猟などで生活をしていた、まったくの原始林でした。移住者達は潅木、竹やぶなどを下刈りしたあと、斧で大木を一本一本切り倒していき、一ヶ月ほど乾燥させた後山焼きをし、耕地を切り拓いていきました。

その後1965年に第28次を迎えるまで第331家族、1,777人が日本より入植していますが、移住地内の景気の変動や開拓生活の困窮、または結婚分家などにより都市部や他の移住地への転住もあり、現在の入植定着数は240戸1,138人となっています。(2001年10月現在)

なお、現在の移住地の総面積は約84,000ha、うち日系移住者による所有面積は約53,000ヘクタールとなっています。

入植がはじまった移住当初は「アルトパラナ移住地」と命名されていましたが、隣接するアルトパラナ県と混合されることから、長い時間をかけて改称に取り組んだ末、1990年にピラポ市として認可されました。なお、初代市長には、日系人である工藤好雄氏が選任されています。

「ピラポ」とは、パラグアイのインディオの言葉であるグアラニー語で「ピラ」は魚、「ポ」は手を表し、「魚が手づかみできるほど多い」の意味とも言われています。移住地のほぼ中央を流れるピラポ川は、移住当初は時季によって川底が見えなくなるほどの魚がのぼってきて、移住者の大切な食料なるほか、釣りを楽しむレクリエーションの場ともなりました。

ピラポ移住地における営農の推移

初期の入植者の募集段階では、「ポメロ(グレープフルーツ)を栽培すれば、金はうなるほど入ってくる」といわれたものの、実際は開拓の困難はもちろんのこと、霜害や病害、販路等の問題もあって伸び悩み、その後はジェルバ(マテ茶)と油桐(ツング)の作付けがすすみ、その生育期間を利用した換金作物として、棉、マイス(とうもろこし)、大豆などが作付けされたほか、水田や野菜、果物なども自家用として栽培されました。

しかし、1960年代後半になって、ツングやジェルバ、ポメロの販売価格が低迷し、当初の計画であった永年作物主体の営農形態が不可能となったため、1970年代からは大規模な機械化農業に向けて大豆の作付が始まり、永年作物は次々と伐採されました。

また1969年には日本企業がパラグアイ絹糸工場ISEPSA(イセプサ)を操業し始めたのを受けて、養蚕農家が急増し、最盛期は70戸を数えましたが、オイルショック以後の繭価の低迷などにより1983年には撤退しました。

1970年代に入ってツング栽培が下火になるに従い、当時のアカカラジャ地区で操業していたCAPSA(カプサ)社の搾油工場や、エンカルナシオンに建設された移住事業団(国際協力事業団の前身)直営の搾油会社カイシサ社も次第にツングから大豆へ取り扱いが変わっていきました。

パラグアイ国内や国際市場における大豆需要の増大、1972年にパラグアイ政府によって策定された国家大豆計画、そして1972年から73年の大豆価格の高騰という追い風を受け、大豆栽培の機運が高まり、事業団から農協にブルドーザーの貸与されたことによりトラクターを受け入れられるような耕地の造成が比較的容易となったことも受け、大豆の耕作面積は増大しました。

しかし、労働力の供給や農業機械の急速な導入により資金繰りが苦しくなったところで1977年の大豆価格の下落を向かえ、ピラポの農業は苦境に立たされます。

この打開策として、小麦栽培を開始し、小麦の栽培後は大豆作の収量も上がるということもあり、大豆の裏作としての小麦栽培が定着しました。

1980年代には農牧省や国立勧業銀行の後押しを受けて、ピラポ農協は穀物サイロやコンバイン、トラクターなどの大規模な設備投資を行い、自分達の手で生産物を保管・管理するようになり、現在もサイロは設備拡張を続け、ピラポ移住地の農業経済を支えています。

ピラポ移住地の関連施設等

ピラポ移住地概略図

伝統を守る

ピラポ移住地の太鼓保存会

太鼓の作成

胴を作っていく

ここ、南米パラグアイの南部に位置するピラポ移住地は、肥沃な赤土に恵まれた大豆と小麦の大生産地である。ここの祭りには、力強い太鼓の音が欠かせない。

日本では太鼓を演奏するといったら、「叩く」ところからがイメージされるかもしれないが、ここピラポでは、1973年に太鼓保存会が設立されてから、「作る」ところから全てが始まった。

ここにある太鼓は全て手作りだ。日本から来たものもあるが、最終的にはすべてこちらで作り直したものである。胴となる木を探し、皮を張る。すべてが手作業で進められている。現在は、この太鼓の胴となる木を探すのが、まず一苦労なのだ。

開拓が進み、森林が急激に減少しつつあるパラグアイでは、硬くて割れ目がなく、なおかつ太鼓の胴になるぐらいの大きな木となると、おいそれとは見つからないのが現状だ。

「これはいい、と思ってくりぬき始めた木が、最後の最後の段階になって、大きなヒビが入って割れてしまったこともあります。今も、他の移住地から『太鼓を作りたいので、手伝ってもらえないか』という話があるのですが、いざ候補に上がっている木を見に行くと、とても使えないような弱い木だったりすることがありますね。木を選ぶのも、なかなか難しいことです。」

と語るのは、ピラポ太鼓保存会設立当時から、運営に携わってきた会長の宇都本利八さんだ。

写真を見てわかるように、ここピラポの太鼓は、日本のように皮を鋲でとめる形ではなく、金属の金具で締め上げるようになっている。これは、日本よりも高温多湿のパラグアイの気候を考慮し、激しい皮の伸び縮みに対応するためだ。いろいろやってみたんですが、ここではこれが一番合うんですよ。」

利八さん達が、試行錯誤の上に生み出した「ピラポ」の太鼓の作り方だ。

利八さんは言う。

「演奏も、日本から比べると、それはレベルの差や違いがあるかもしれません。でも、ここピラポでは、この太鼓と同じように、ただ日本の真似をするだけじゃなくて、新しく「ピラポ流」ともいえるものを生み出しているのです。それが、ピラポの太鼓なんです。」

会員には日系子弟だけでなく、パラグアイ人とのハーフの子供も入会しているが、指導は全て日本語で行われている。

「太鼓を通して、日本の習慣や考え方、しつけなども教えていきたいと思っているんですよ。」

という利八さんの気持ちからなるものだが、それを期待してか、少年少女の入会は多く、常に20数名が活動している。

農閑期は大体週に1回の練習も、催事での発表の前には週3回を数える時もある。利八さんの熱のこもった指導に、子供達も真剣なまなざしで練習に取り組む。現在は、ピラポだけではなくて、他の移住地に招かれることも多く、この保存会がピラポだけではなく、日系社会全体の文化継承者になっているといっても過言ではない。

また、この太鼓保存会が一番得意とする曲が、「ピラポ音頭」である。これは、初代会長が「ピラポに音頭を作りたい」という強い思いで、日本に帰国した後に諸方面に働きかけ、ほぼ自身の持ち出しで作り上げたものである。今では、ここピラポの夏祭りはもちろん、さまざまな行事に欠かせない一曲となっている。この曲に合わせて叩く太鼓に、移住地の人たちが楽しそうに踊るのを見ると、太鼓を叩く手にも力が入る。

保存会の運営にはピラポ日会からの支援があるとはいえ、経済的には決して楽ではない。練習用のラジカセなどの機材をはじめ、地方遠征などの際の、利八さん自身の持ち出しは決して少なくない。

「もちろん好きでなきゃ、できません。しかしね、この太鼓の灯を決して絶やしたくないと思う、その気持ちでやってきました。この気持ちを理解して、受け継いでくれるような後継者を育てることが、これからの課題でもあると思っています。」

ここピラポも、南米諸国の他の日系社会と同様、不況により日本に出稼ぎに行ってしまう若者が後を絶たない。子供のころから保存会で練習を積んできても、高校を卒業すると共に日本へ行ってしまうケースが多い。現在は利八さんの息子である慎吾さんが、若手として活躍しているが、後継者育成は今後も切実な問題である。

ピラポに息づいたピラポ流の太鼓。赤い大地にその響きを轟かせてきた保存会は、2003年で30周年を迎えた。

※写真提供および取材協力:ピラポ太鼓保存会会長宇都本利八さん

ピラポ音頭

企画制作              ピラポ太鼓保存会 宇都本 利八

作  詞              佐藤 真由美     補  作              大奈路 儀澄

作  曲              馬上 雅宏             歌    相馬 次郎

振  付              下川まゆみ、 吉永八重子、 菊池セイ子

一、       祖国を離れて たどりついたよ

赤い大地の パラグアイ

何日 何年 何十年

苦労重ねて 造った暮らし

ここがみんなの コロニヤピラポ

さあさ踊ろよ 踊ろじゃないか

気さくなところ おいらの故郷は

しあわせあふれた ピラポの仲間

さあさ踊ろよ 踊ろじゃないか

二、       ワンと犬なく 猫がじゃれるよ

招きよせれば 福が来る

何日 何年 何十年

力合わせて 今日まで来たよ

これが自慢の コロニヤピラポ

さあさ踊ろよ 踊ろじゃないか

輝く朝日 夕日がきれい

それよりきれいさ ピラポのあの娘

さあさ踊ろよ 踊ろじゃないか

三、       畑を耕し 汗を流して

花を咲かせて 実を増やし

何日 何年 何十年

いのり続けた 明日の夢が

咲いて嬉しい コロニヤピラポ

さあさ踊ろよ 踊ろじゃないか

笑顔をかわし お隣同志

愛するところさ ふるさとピラポ

さあさ踊ろよ 踊ろじゃないか

参考文献

  • 「ひらけゆく大地」第1集 ピラポ移住地10年史(10年史刊行委員会)
  • 「ひらけゆく大地」第2集 ピラポ移住地20年史(20年史刊行委員会)
  • 「ひらけゆく大地」第3集 ピラポ移住地30年史(30年史刊行委員会)
  • 「ひらけゆく大地」第4集 ピラポ移住地40年史(40年史刊行委員会)
  • 南米のオアシス パラグアイ(財団法人海外移住助成会)
  • パラグアイ日本人移住50年史「栄光への礎」(パラグアイ日本人会連合会)

取材および撮影等協力

  • ピラポ日本人会
  • ピラポ太鼓保存会
  • 古川望さん(日系社会青年ボランティア17回生、ピラポ日本語学校)